「第8話 綻び(ほころび)」 最近では、いわゆる『出来ちゃった婚』の占める割合が30%近くにも達しようとしている。
そのせいか周囲の人々も『へーっ、いつの間に』などと苦笑いこそするが、『ふたりが幸せ
であれば』、とあまりマイナスイメージで捉えない傾向にさえある。
しかし、遠山誠や芳野千尋が社会人となった26年前はどうだっただろうか。若すぎる結婚
にお互いの両親も必死で反対しただろうし、友人達からも驚異の目で見られたに違いない。
ましてや遠山誠は卒業当時、定職がないままアルバイトで生計を立てながら響子と結婚をし、父親になったのだから。あったのは、脚本家になりたいという夢と誠実な人柄と自分の
可能性を信じて努力することだけだった。
リストランテ 銀座ポルトファーロ 美沙は山田綾乃から学生時代の遠山誠の話を聞きながら、彼は現在の若者よりも精神的
にはるかに大人であり責任感も強い人物だったのだろうと感じた。綾乃は思ったよりも取材
に協力的で、学生時代の他愛のないことまで話してくれた。
この様子ならば大丈夫と思い、彼女は小林秀雄に見せたのと同じ『赤い海』という本をバッグ
の中から取り出した。
美沙:「これ、遠山誠氏が22年前に自費で出版された本ですが、ご覧になったことが
ありますか?」
急に綾乃の目が輝き、美沙が差し出した本に懐かしそうに手を伸ばした。
綾乃:「あら、この本!私も読みました。これを何処で?よく手に入りましたね。
当然ですよね。雑誌社にお勤めなのですもの」
綾乃から「いいえ、初めてです」と言う返事が帰ってくるとばかり思い込んでいた美沙は勢いを削がれた形になった。彼女は一度用意していた言葉を飲み込み、体制を整え直さなければならなかった。それならば、いっそう話は早い。

美沙:「山田さんこそ、遠山誠氏が書かれた本だとよくわかりましたね。彼はこの本
を出版するにあたり、わざわざ二流の目立たない出版社に原稿を持ち込んで、
しかも冊数限定による自費で出版されたのです。彼ほどのドラマ作家が書き上
げた作品であれば、著名な出版社なら何処でも取り扱ってくれる筈なのに」
美沙:「どうしてそんな不可思議な行動を取ったのでしょうね?それで遠山ご夫妻のこと
を知っていらっしゃるご学友にお聞きしてみようと思ったのです。」
綾乃:「そうでしたか。私もM書店で別の本を探している時に、この本を見つけたのです。
ドラマ作家として活躍し始めた彼が実名で脚本を書いていたことは、響子から聞
いて知っていましたから」
美沙:「すでに、お読みになっているのでしたら、内容はよくご存知のことと思いますが、
この物語は幼い男の子を不運な事故で亡くしてしまった若い父親の苦悩がモチ
ーフとなっています」

美沙:「遠山氏はお子さんを亡くしてから半年後にこの本を出版されています。それで
遠山誠の実話に近い話ではないのか、と噂になったことがあったのです。その
内容ですが、まるで読者の誰かに向けて書いているのではないかと感じられる
節もあったりして、どう思われましたか?」
美沙:「それと、この本のことで響子さんともご連絡を取られましたか?」
今度は、美沙の堰を切ったような説明と質問に圧倒されたのか、綾乃の方がどう答えて
いいものか言葉を失ってしまったようだった。彼女は膝に置かれたナプキンの裾に指を
絡めながら、しばらく沈黙を続けた。それはものの2・3分の時間ではあったが、とても長く
感じられた。

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