2005年 12月 01日
冬の追憶No.21-20-2 |
「冬の追憶」という物語を書くに至って、汐留・銀座地区を歩き経験したことや、調べてわかったことなどを少しご紹介いたしたいと思います。
「第5話 迷路」は、物語の三分の一の山場とも言える大切な章です。
予定としては「銀座の地名の由来と歴史」・「記憶とはその人が作る
物語」を更新後、「第5話 迷路」に入っていきます。
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1995年、今から10年ぐらい前のこと、東京都の臨海副都心計画に基づき「お台場」地区
が再整備され、新しい街が作られ話題を呼びました。別名「レインボータウン」とも呼ばれて
います。
「お台場」はペリー来航に伴い、江戸防衛のために作られた砲台島のひとつです。当時の
日本では、このようにして全国各地の臨海部に1000箇所以上の砲台場が作られていった
そうです。
遠方にかすんで見えるのが「お台場」
で は何故、ここだけ「お」を付けて呼ぶのでしょう。この時代、将軍家や江戸幕府に関連する機関や施設には、基本的に「御」をつけて呼ぶことで、差別化を図った。つまり「お上のもの」という意味だそうです。台場は幕府の砲台場なので「御」をつけて呼んだ、それがそのまま
現在に受け継がれ「お台場」と呼ばれるようになったとのことです。
3年後の1998年、東京都は旧国鉄の民営化に伴い、汐留地区の再開発と土地区画
整理事業を開始いたしました。同年の秋頃のことだったと思います。汐留地区から江戸
時代の大名屋敷跡や当時の人々によって使われていた様々なものが、発見されたという
記事が新聞に掲載されたことがありました。
当時から好奇心旺盛な私は、ゆりかもめに乗り、車中からその様子を見学したことがありました。高い位置から一瞬眺めただけですが、整然と区画された遺跡跡でたくさんの人々が発掘調査にあたっていました。この地で、どんな人々が住みどんな暮らしが営まれていたのかと
考えるだけでも、過去の世界へロマンを感じたものです。 当時の様子を克明に撮影し「開発前夜の東京ベイサイト」というホームページ名で公開して
いらっしゃる方をネット上で見つけましたので、ご紹介いたします。リンクフリーとなっていましたので、リンクさせていただきました。「開発前夜の東京ベイサイト」では、近年に入り大きく
変貌を遂げていった臨海都市の様子や映画・ドラマで使われたロケ地なども、紹介されています。とても見応えのあるすばらしいページです。
このページの管理者ですが、ハンドル名「ユウキさん」とおっしゃる方です。ネコパブリッシング社「トワイライトゾ~ンMANUALⅣ 」(1995年-10月) タイトル「謎のトンネルの正体はいかに…」という本も出版されています。ご興味のある方は、是非、ご覧になってみてください。
「開発前夜の東京ベイサイト」
「汐留」をクリックされると、「汐留遺跡」発掘当時の様子などを、ご覧になることができます。
時は流れ7年後の2005年、私は物語の挿絵にするための写真を撮影するため、汐留
地区を3回ほど訪れ散策してみました。先月のことですが、日本テレビタワーや汐留タワー
へと通じる「ゼロスタ広場」の壁面に、旧仙台藩上屋敷跡があったことを証明するモニュ
メントを見つけました。このことが、再度興味を持つきっかけとなりました。
ゼロスタ広場壁面のモニュメント
すでにその面影はまったくありませんが、日本テレビ本社敷地一帯には、江戸時代、旧仙台藩伊達家の上屋敷(約25,819坪)がありました。モニュメントは二つあり、一つは上屋敷跡の「ゼロスタ広場」に、もう一つは表門跡にあるそうです。
ゼロスタ広場
表門跡にはいわれがあり、1702年冬、あだ討ちを遂げて主君の墓所へ報告に向かう赤穂
浪士を仙台藩士がこの屋敷の表門で呼びとめ、粥を振舞ったというエピソードがあるそうです。(※仙台市市長記者会見『旧仙台藩上屋敷跡説明サインを設置』より抜粋)
ご興味のある方は下記をクリックしますと、詳細をご覧になることができます。
仙台市市長記者会見「旧仙台藩上屋敷跡説明サインを設置」
汐留地区には、その他にも播州立野藩脇坂家の下屋敷、伊達家の上屋敷、龍野藩脇坂家上屋敷また会津藩保科家の中屋敷などが建ち並び、浜離宮恩賜庭園は、将軍家の鷹狩り場であったそうです。当時の遊興の場も、品川の海岸線から隅田川沿いへと発展していきました。大名たちはこの地に、風光明媚な水辺の環境と、水運よる交通手段の利便性を見いだし、江戸で滞在するための屋敷を海岸線沿いに設けていきました。
それでは汐留という地名の由来に入っていきます。汐留というのは、江戸城の外堀と海を
仕切る堰が土橋にあり、それ以上は潮の干満が及ばないようにしたことが地名の由来と
なったとされています。
この土地の埋め立の方法ですが、ただ土を盛っただけではなく、杭を打ち込み竹や板で杭の間をふさぐ竹柵や板柵、あるいは石垣を積むことによって、波によって土が流れないような
工夫がされています。それが、遺跡として残っていました。
向って左側が汐留タワー、右側が日本テレビタワー
現在、新橋や銀座には近代的なビルが建ち並び、そこがかつては海だったことを思わせるような面影すらありません。しかし、徳川家康が江戸に入所した頃は、皇居のある二重橋
付近まで海が入り込み日比谷入り江と呼ばれていました。
家康から家光にかけての時代、徳川幕府は江戸の町造りに心血を注がなければなりませんでした。それには莫大な費用がかかります。徳川幕府がそれをしたのでは、たちまちのうちに財政難に陥ります。そこで考え出されたのが、海を埋め立てるための土地の造成工事に、譜代大名の財政をあてました。この「天下普請」によって生まれた土地には、工事にあたった大名の領地名が付けられました。
ご存知のように、徳川幕府は全国の大名に参勤交代の制度を課し、1年おきに1年間江戸に住むことを義務づけました。なかでも、藩主が住み、政務を執るための屋敷を「上屋敷」と呼びました。このようにして、汐留や新橋、築地などの町ができていきました。
(※ニッセイエプロ(広告代理店)のホームページ 「汐留の地名の由来と歴史」より抜粋)
なお下記のページでもっと詳しく紹介されています。ご興味のある方はご覧ください。
ニッセイエプロ(広告代理店)のホームページ 「汐留の地名の由来と歴史」
また、新橋は日本の鉄道発祥の地としても有名です。それについては、下記のページで詳しく紹介されていますので、合わせてご覧ください。
Biz-Solution W.H.S World Unchiku Satellite
「Vol.3 汐留~文明開化の地から都心回帰のシンボルエリアへ」
ページが長くなりましたので、「銀座」編につきましては次回の投稿で、ご紹介していきたいと思います。
この物語を幅広く皆様にお読みいだだけたらと思い、下記2つの「ブログランキング」サイトに登録してみました。何か心に感じることがありましたら、クリックして
いただけますと嬉しく思います。どうぞ、よろしくお願い致します。
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「第5話 迷路」は、物語の三分の一の山場とも言える大切な章です。
予定としては「銀座の地名の由来と歴史」・「記憶とはその人が作る
物語」を更新後、「第5話 迷路」に入っていきます。
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1995年、今から10年ぐらい前のこと、東京都の臨海副都心計画に基づき「お台場」地区
が再整備され、新しい街が作られ話題を呼びました。別名「レインボータウン」とも呼ばれて
います。
「お台場」はペリー来航に伴い、江戸防衛のために作られた砲台島のひとつです。当時の
日本では、このようにして全国各地の臨海部に1000箇所以上の砲台場が作られていった
そうです。
遠方にかすんで見えるのが「お台場」
で は何故、ここだけ「お」を付けて呼ぶのでしょう。この時代、将軍家や江戸幕府に関連する機関や施設には、基本的に「御」をつけて呼ぶことで、差別化を図った。つまり「お上のもの」という意味だそうです。台場は幕府の砲台場なので「御」をつけて呼んだ、それがそのまま
現在に受け継がれ「お台場」と呼ばれるようになったとのことです。
3年後の1998年、東京都は旧国鉄の民営化に伴い、汐留地区の再開発と土地区画
整理事業を開始いたしました。同年の秋頃のことだったと思います。汐留地区から江戸
時代の大名屋敷跡や当時の人々によって使われていた様々なものが、発見されたという
記事が新聞に掲載されたことがありました。
当時から好奇心旺盛な私は、ゆりかもめに乗り、車中からその様子を見学したことがありました。高い位置から一瞬眺めただけですが、整然と区画された遺跡跡でたくさんの人々が発掘調査にあたっていました。この地で、どんな人々が住みどんな暮らしが営まれていたのかと
考えるだけでも、過去の世界へロマンを感じたものです。
いらっしゃる方をネット上で見つけましたので、ご紹介いたします。リンクフリーとなっていましたので、リンクさせていただきました。「開発前夜の東京ベイサイト」では、近年に入り大きく
変貌を遂げていった臨海都市の様子や映画・ドラマで使われたロケ地なども、紹介されています。とても見応えのあるすばらしいページです。
このページの管理者ですが、ハンドル名「ユウキさん」とおっしゃる方です。ネコパブリッシング社「トワイライトゾ~ンMANUALⅣ 」(1995年-10月) タイトル「謎のトンネルの正体はいかに…」という本も出版されています。ご興味のある方は、是非、ご覧になってみてください。
「開発前夜の東京ベイサイト」
「汐留」をクリックされると、「汐留遺跡」発掘当時の様子などを、ご覧になることができます。
時は流れ7年後の2005年、私は物語の挿絵にするための写真を撮影するため、汐留
地区を3回ほど訪れ散策してみました。先月のことですが、日本テレビタワーや汐留タワー
へと通じる「ゼロスタ広場」の壁面に、旧仙台藩上屋敷跡があったことを証明するモニュ
メントを見つけました。このことが、再度興味を持つきっかけとなりました。
ゼロスタ広場壁面のモニュメント
すでにその面影はまったくありませんが、日本テレビ本社敷地一帯には、江戸時代、旧仙台藩伊達家の上屋敷(約25,819坪)がありました。モニュメントは二つあり、一つは上屋敷跡の「ゼロスタ広場」に、もう一つは表門跡にあるそうです。
ゼロスタ広場
表門跡にはいわれがあり、1702年冬、あだ討ちを遂げて主君の墓所へ報告に向かう赤穂
浪士を仙台藩士がこの屋敷の表門で呼びとめ、粥を振舞ったというエピソードがあるそうです。(※仙台市市長記者会見『旧仙台藩上屋敷跡説明サインを設置』より抜粋)
ご興味のある方は下記をクリックしますと、詳細をご覧になることができます。
仙台市市長記者会見「旧仙台藩上屋敷跡説明サインを設置」
汐留地区には、その他にも播州立野藩脇坂家の下屋敷、伊達家の上屋敷、龍野藩脇坂家上屋敷また会津藩保科家の中屋敷などが建ち並び、浜離宮恩賜庭園は、将軍家の鷹狩り場であったそうです。当時の遊興の場も、品川の海岸線から隅田川沿いへと発展していきました。大名たちはこの地に、風光明媚な水辺の環境と、水運よる交通手段の利便性を見いだし、江戸で滞在するための屋敷を海岸線沿いに設けていきました。
それでは汐留という地名の由来に入っていきます。汐留というのは、江戸城の外堀と海を
仕切る堰が土橋にあり、それ以上は潮の干満が及ばないようにしたことが地名の由来と
なったとされています。
この土地の埋め立の方法ですが、ただ土を盛っただけではなく、杭を打ち込み竹や板で杭の間をふさぐ竹柵や板柵、あるいは石垣を積むことによって、波によって土が流れないような
工夫がされています。それが、遺跡として残っていました。
向って左側が汐留タワー、右側が日本テレビタワー
現在、新橋や銀座には近代的なビルが建ち並び、そこがかつては海だったことを思わせるような面影すらありません。しかし、徳川家康が江戸に入所した頃は、皇居のある二重橋
付近まで海が入り込み日比谷入り江と呼ばれていました。
家康から家光にかけての時代、徳川幕府は江戸の町造りに心血を注がなければなりませんでした。それには莫大な費用がかかります。徳川幕府がそれをしたのでは、たちまちのうちに財政難に陥ります。そこで考え出されたのが、海を埋め立てるための土地の造成工事に、譜代大名の財政をあてました。この「天下普請」によって生まれた土地には、工事にあたった大名の領地名が付けられました。
ご存知のように、徳川幕府は全国の大名に参勤交代の制度を課し、1年おきに1年間江戸に住むことを義務づけました。なかでも、藩主が住み、政務を執るための屋敷を「上屋敷」と呼びました。このようにして、汐留や新橋、築地などの町ができていきました。
(※ニッセイエプロ(広告代理店)のホームページ 「汐留の地名の由来と歴史」より抜粋)
なお下記のページでもっと詳しく紹介されています。ご興味のある方はご覧ください。
ニッセイエプロ(広告代理店)のホームページ 「汐留の地名の由来と歴史」
また、新橋は日本の鉄道発祥の地としても有名です。それについては、下記のページで詳しく紹介されていますので、合わせてご覧ください。
Biz-Solution W.H.S World Unchiku Satellite
「Vol.3 汐留~文明開化の地から都心回帰のシンボルエリアへ」
ページが長くなりましたので、「銀座」編につきましては次回の投稿で、ご紹介していきたいと思います。
この物語を幅広く皆様にお読みいだだけたらと思い、下記2つの「ブログランキング」サイトに登録してみました。何か心に感じることがありましたら、クリックして
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by jsby
| 2005-12-01 18:01
| 追憶 冬物語