2005年 12月 06日
冬の追憶No.21-20-3 |
東京の木々たちが少しずつ紅葉し始めた11月初旬のこと、私は物語「冬の追憶」の中で「芳野 美千代」が経営する画廊の候補地を探すため銀座へと
向かいました。イメージとしては、「銀座の裏通り・
エレベーターもないような古びたビル・汐留寄りで
銀座7・8丁目付近」。
出かける前に、ネット上の地図サイト(マピオン)で、下調べと場所の確認。しかし、実際に行って見てみなければ、イメージと合うかどうかわからない。
銀座のよいところは、建物が碁盤の目のように整然と建てられており、初めての人でも地図どおり行けば、目的地に行き着くことができることです。
私はこれまで、銀座の町の基盤が作られたのは明治時代だとばかり思っていました。
それが、全くの認識違いということがわかったのは、銀座7丁目付近の街路で「今を振り返る江戸の町と人々~江戸の運河・三十間掘」というモニュメントを見かけたからでした。銀座の
7丁目角(新橋方面に、向かって左側)に「三菱銀行の銀座支店」がありますが、その前に
モニュメントが建てられています。
モニュメントに記載されている内容を、撮影してきたのが下記写真です。良くお解りにならないと思いますので、書かれている内容をさらに記述してみました。
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家康が江戸開府した1603年(慶長8年)、銀座はまだなく、ここには海が広がっていました。その後、埋め立てが行われ、町が築かれていきました。江戸は埋め立てによって拡大した
都市で、川や運河が多く、船を使った水上交通が発達しました。
銀座には三十間堀という運河が流れていました。川船が行き会い、にぎわっていたことで
しょう。三原橋はこの三十間堀にかかっていた橋で、交差点の名称としてその名残をとどめ
ています。
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このことから銀座も新橋や汐留同様、海だったことがわかりました。銀座は江戸時代の埋め立てより、人工的に造られた町だったのです。さらに徳川幕府は川の多い江戸の環境を生かし、物資の輸送や人の移動手段として、水上交通が便利であると気付いたのです。
川船は武士や町人も利用する、日常的な交通手段でした。彼らは猪牙(ちょき)と呼ばれる
川船に乗り、行ける所まで行き、降りてから歩くのが普通でした。今で言う「タクシー」みたいなものでしょうか。かつての銀座は、イタリアのベニスのように風光明媚な水の都として、
江戸の人々に愛されていたことでしょう。
そのため、水上交通に必要な運河(掘割)が、いくつも造られていきました。江戸時代のお濠も、その後開かれた水路も川としょうされ、「外濠川・京橋川・築地川・三十軒堀川・汐留川」などと呼ばれ、親しまれていました。
銀座には三十間堀という運河が、銀座中央通りの東側を並行して流れていました。
その頃の状況がわかるのが、江戸切り絵図と呼ばれる古地図です。モニュメント右斜め上に
ある古地図部分を、さらに拡大して撮影してきました。
現在、銀座には川も掘割も全く残されていません。すべて埋め立てられ、道路や高速道路に変えられてしまいました。三十間堀川も、1949年(昭和24年)に埋め立てられ道路に
変わり、姿を消してしまいました。三原橋はこの三十間堀にかかっていた橋で、「三原橋」の
名称としてその名残をとどめています。
私は、モニュメントをきっかけとして、この幻の三十間堀川という運河跡を探してみたくなり
ました。その機会は、思ったよりも早く訪れました。12月4日(日)、親戚を訪ねるため東京の
神楽坂まで行く用事がありました。ついでに皇居やクリスマスの銀座も、見てこようと思ったのです。しかし、この日は昼前から小雨が降り出し、銀座だけに焦点をしぼりました。
写真左から、「ミキモト銀座本店のクリスマスイルミネーション」・「愛犬を連れて散歩中の
男性」・「銀座三越のクリスマスディスプレイ」
探す手がかりとなったのは、
☆「銀座コンシェルジュ 銀座学入門」サイト
「銀座の地形と成り立ち ~銀座が海だった頃から~」
☆銀座3丁目の周辺地図と古地図です。
写真上段右側の道路が、埋め立て後の三十軒掘川
写真下段左側が、明治38~43年頃の三十間堀川と三原橋
東銀座にある「シネパトス」という、昔からある映画街(現在のシネカン)あたりの地名が、
三原橋です。ここから少し先の先の晴海通りと昭和通りの交差点を、三原橋と呼んでい
ますが、本当の三原橋はここです。
4丁目の方から歩いて来ると、そこだけなだらかな傾斜がついています。意識して歩かれ
ると、お解りになると思います。「緩やかに上り、少し行って、緩やかに下る」というような
感じがします。その感触で、そこに三原橋があったことを、確認できると思います。
ここはおもしろい構造になっています。晴海通りをはさんで、左右に地上への出入口があり、各映画館は道路の地下に存在します。「銀座シネパトス」に、ご興味のある方は下記を
クリックして、ご覧ください。
「銀座シネパトス」
下記は「シネパトス」を、裏側から映した写真です。これと全く同じものが、晴海通りの反対側
にあります。アーチ型の不思議なデザインです。表通り側には、別の建物が建っています。
昭和初期の世界へ迷い込んだような、レトロな感じがします。その建物の向かい側の道路が、かつての三十軒掘川です。
三十間堀川をはさんで、右側を「木挽町(こびきちょう)」左側を「三十間町」という地名で呼ばれていました。現在、歌舞伎座がある界隈がそうです。地名の由来ですが、江戸城を造る時に、木を挽くための鋸匠(のこぎりたくみ)たちが、多く住んでいたところからきています。
江戸時代、現在の昭和通りと平行して三十間堀川が流れ、周辺には芝居小屋や材木商・
船宿などもあったそうです。
昭和通り(左は汐留方面に向って撮影、 右は京橋方面に向って撮影)
現在では、銀座にあった橋のすべてが、運河ではなく車の流れる主要道路と接しています。例えば、白魚橋(昭和通り)、京橋(高速道路)、城辺橋(外堀通り)、山下橋(外堀通り)、
土橋(外堀通り)、新橋(外堀通り)、蓬莱橋(昭和通り)、采女橋(首都高)、万年橋(首都高)、三吉橋(首都高)等です。今こうした橋は銀座への入口として、江戸時代と同じ役割を
果たしています。
(※「銀座コンシェルジュ 銀座学入門」の「銀座の地形と成り立ち ~銀座が海だった頃
から~」より抜粋)
詳細は下記ページを、ご覧ください。
「銀座コンシェルジュ 銀座学入門」
「銀座の地形と成り立ち ~銀座が海だった頃から~」
最後に、「銀座コンシェルジュ」のページで、下記プレゼントコーナーを見つけました。
銀座コンシェルジュ「ギンザタナカ 銀座本店の店主敬白」のトップページをご覧になり、アンケートにお答えいただいた方の中から、抽選で10名様に、ギンザタナカ謹製“シルバーペンダント クリスマスベル”をプレゼントしてくれるそうです。よかったら、応募してみてくださいね。私も昨日、応募してみました。
ギンザタナカ 銀座本店の「シルバーペンダント クリスマスベル」のプレゼント
ギンザタナカからのプレゼント(抽選で10名 2005年12月15日まで)
「シルバーペンダント クリスマスベル」入力フォーム
この物語を幅広く皆様にお読みいだだけたらと思い、下記2つの「ブログランキング」サイトに登録してみました。何か心に感じることがありましたら、クリックして
いただけますと嬉しく思います。どうぞ、よろしくお願い致します。
「人気blogランキング 詩、小説部門」
「ヵヮィィ☆ブログランキング 写真&その他部門」
向かいました。イメージとしては、「銀座の裏通り・
エレベーターもないような古びたビル・汐留寄りで
銀座7・8丁目付近」。
出かける前に、ネット上の地図サイト(マピオン)で、下調べと場所の確認。しかし、実際に行って見てみなければ、イメージと合うかどうかわからない。
銀座のよいところは、建物が碁盤の目のように整然と建てられており、初めての人でも地図どおり行けば、目的地に行き着くことができることです。
私はこれまで、銀座の町の基盤が作られたのは明治時代だとばかり思っていました。
それが、全くの認識違いということがわかったのは、銀座7丁目付近の街路で「今を振り返る江戸の町と人々~江戸の運河・三十間掘」というモニュメントを見かけたからでした。銀座の
7丁目角(新橋方面に、向かって左側)に「三菱銀行の銀座支店」がありますが、その前に
モニュメントが建てられています。
家康が江戸開府した1603年(慶長8年)、銀座はまだなく、ここには海が広がっていました。その後、埋め立てが行われ、町が築かれていきました。江戸は埋め立てによって拡大した
都市で、川や運河が多く、船を使った水上交通が発達しました。
銀座には三十間堀という運河が流れていました。川船が行き会い、にぎわっていたことで
しょう。三原橋はこの三十間堀にかかっていた橋で、交差点の名称としてその名残をとどめ
ています。
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このことから銀座も新橋や汐留同様、海だったことがわかりました。銀座は江戸時代の埋め立てより、人工的に造られた町だったのです。さらに徳川幕府は川の多い江戸の環境を生かし、物資の輸送や人の移動手段として、水上交通が便利であると気付いたのです。
川船は武士や町人も利用する、日常的な交通手段でした。彼らは猪牙(ちょき)と呼ばれる
川船に乗り、行ける所まで行き、降りてから歩くのが普通でした。今で言う「タクシー」みたいなものでしょうか。かつての銀座は、イタリアのベニスのように風光明媚な水の都として、
江戸の人々に愛されていたことでしょう。
そのため、水上交通に必要な運河(掘割)が、いくつも造られていきました。江戸時代のお濠も、その後開かれた水路も川としょうされ、「外濠川・京橋川・築地川・三十軒堀川・汐留川」などと呼ばれ、親しまれていました。
銀座には三十間堀という運河が、銀座中央通りの東側を並行して流れていました。
その頃の状況がわかるのが、江戸切り絵図と呼ばれる古地図です。モニュメント右斜め上に
ある古地図部分を、さらに拡大して撮影してきました。
変わり、姿を消してしまいました。三原橋はこの三十間堀にかかっていた橋で、「三原橋」の
名称としてその名残をとどめています。
私は、モニュメントをきっかけとして、この幻の三十間堀川という運河跡を探してみたくなり
ました。その機会は、思ったよりも早く訪れました。12月4日(日)、親戚を訪ねるため東京の
神楽坂まで行く用事がありました。ついでに皇居やクリスマスの銀座も、見てこようと思ったのです。しかし、この日は昼前から小雨が降り出し、銀座だけに焦点をしぼりました。
男性」・「銀座三越のクリスマスディスプレイ」
探す手がかりとなったのは、
☆「銀座コンシェルジュ 銀座学入門」サイト
「銀座の地形と成り立ち ~銀座が海だった頃から~」
☆銀座3丁目の周辺地図と古地図です。
写真上段右側の道路が、埋め立て後の三十軒掘川
写真下段左側が、明治38~43年頃の三十間堀川と三原橋
東銀座にある「シネパトス」という、昔からある映画街(現在のシネカン)あたりの地名が、
三原橋です。ここから少し先の先の晴海通りと昭和通りの交差点を、三原橋と呼んでい
ますが、本当の三原橋はここです。
4丁目の方から歩いて来ると、そこだけなだらかな傾斜がついています。意識して歩かれ
ると、お解りになると思います。「緩やかに上り、少し行って、緩やかに下る」というような
感じがします。その感触で、そこに三原橋があったことを、確認できると思います。
ここはおもしろい構造になっています。晴海通りをはさんで、左右に地上への出入口があり、各映画館は道路の地下に存在します。「銀座シネパトス」に、ご興味のある方は下記を
クリックして、ご覧ください。
「銀座シネパトス」
下記は「シネパトス」を、裏側から映した写真です。これと全く同じものが、晴海通りの反対側
にあります。アーチ型の不思議なデザインです。表通り側には、別の建物が建っています。
昭和初期の世界へ迷い込んだような、レトロな感じがします。その建物の向かい側の道路が、かつての三十軒掘川です。
江戸時代、現在の昭和通りと平行して三十間堀川が流れ、周辺には芝居小屋や材木商・
船宿などもあったそうです。
昭和通り(左は汐留方面に向って撮影、 右は京橋方面に向って撮影)
土橋(外堀通り)、新橋(外堀通り)、蓬莱橋(昭和通り)、采女橋(首都高)、万年橋(首都高)、三吉橋(首都高)等です。今こうした橋は銀座への入口として、江戸時代と同じ役割を
果たしています。
(※「銀座コンシェルジュ 銀座学入門」の「銀座の地形と成り立ち ~銀座が海だった頃
から~」より抜粋)
詳細は下記ページを、ご覧ください。
「銀座コンシェルジュ 銀座学入門」
「銀座の地形と成り立ち ~銀座が海だった頃から~」
最後に、「銀座コンシェルジュ」のページで、下記プレゼントコーナーを見つけました。
銀座コンシェルジュ「ギンザタナカ 銀座本店の店主敬白」のトップページをご覧になり、アンケートにお答えいただいた方の中から、抽選で10名様に、ギンザタナカ謹製“シルバーペンダント クリスマスベル”をプレゼントしてくれるそうです。よかったら、応募してみてくださいね。私も昨日、応募してみました。
ギンザタナカ 銀座本店の「シルバーペンダント クリスマスベル」のプレゼント
ギンザタナカからのプレゼント(抽選で10名 2005年12月15日まで)
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by jsby
| 2005-12-06 20:35
| 追憶 冬物語