2005年 12月 11日
冬の追憶No.21-20-4 |
12月4日、小雨にけむる銀座へ。この日は日曜日、歩行者天国デー。写真撮影にはもってこいの
条件でした。これで「雨が降っていなければ」と思
いつつも、「雨が降っているから、この程度の人出」
「ラッキー!」と思うことに。銀座の町はすっかりクリスマスムード。毎年、話題となる「銀座ミキモト」の
クリスマスイルミネーションにも、灯りがともり見応えがありました。
また、モミの木の下に置かれているクリスタルドールも、キラキラと輝き綺麗でした。
「銀座ミキモト」ホームページ
そしてデパートや老舗店のプランナーの手により、華やかにディスプレイされた各ショーウィンドウが、路行く人の目を楽しませてくれます。
ご存知のように、銀座という地名は、江戸時代ここに銀貨の鋳造所があった事に由来します。その当時「銀座」というのは地名ではなく、江戸幕府の役所の名称でした。「座」とは、
貨幣や、度量衡に従う特別な免許品を製造する場所のこと。銀座の他に、金座、枡座、
秤座、朱座、などがありました。
江戸幕府は遷都に伴い、それまで駿府(すんぷ)現在の静岡市にあった銀貨鋳造所(銀座)を、1612年(慶長17年)江戸の京橋南にへと移しました。銀座2丁目の中央通り沿いには「銀座発祥の地」の記念碑があります。日本橋の現在日本銀行が建っているところに金貨鋳造所「金座」があり、「両替町」と言われていたため、それに合わせ「銀座」は「新両替町」と
いう名称で呼ばれました。しかし、その頃から通称名では「銀座」と呼ばれていました。
「銀座発祥の地」の記念碑については、下記のページで紹介されています。
らっしゃい東京 ちょっと東京めぐり「銀座」 財団法人 東京観光財団
また、銀座の簡単な略地図は下記のページを、ご覧ください。
銀座コンジェlルジュ「銀座マップ」
その後、寛政の改革の最中、銀貨鋳造役人の汚職事件によって、銀座は蠣殻町へ移されましたが、「新両替町」という町名は幕末まで残りました。1869年(明治2年)、町名を「新両替町」から、通称だった「銀座」にすることになりました。これが、正式な町名としての銀座の
始まりです。
この頃、銀座は現在のように1丁目から8丁目までの範囲ではなく、4丁目までで、広さも今の1割程度でした。しかも銀座の表通りに面した、西側と東側の一列目だけ。
現在の銀座4丁目交差点を境にして、銀座
5・6丁目は、かつて尾張町1丁目、2丁目
と呼ばれていました。そして銀座7丁目は
竹川町、8丁目は出雲町と南金六町。
旧地名は、江戸時代の藩の名前に付随して
います。前回の投稿でもご紹介いたしましたが、徳川家康から家光にかけ、幕府は江戸の町づくりに、力を注がなければならなかったのです。
そこで、江戸城の日比谷の入り江を起点とする遠浅の海を埋め立て、土地を造成する工事に、譜代大名の力をあてました。これが世に言う「天下譜請」のひとつです。このようにして「天下普請」によって生まれた土地には、工事にあたった大名の領地名が付けられました。(※銀座ストーリー「銀座の地名の由来」から抜粋)
譜代大名とは、歴代にわたり徳川将軍家の草創期を築いた譜代の家臣のことを言います。
徳川幕府は彼らを、譜代大名として側に置き、幕府の軍事力を確保するとともに、幕府の
大老はじめ老中を中心とした重要な要職につけ、幕政の安定をはかりました。
譜代大名は比較的石高は低く、譜代筆頭の井伊氏の彦根藩が突出した35万石を得ている
ものの、他の大名は10万石以下だったそうです。現代でいうなら、日本の主要企業の専務
取締役クラスでしょうか。
詳細は下記ページをご覧ください。良質でシンプルにまとめられ解りやすく説明されてい
ます。
「銀座ストーリー」銀座の地名の由来 ~江戸時代~
ここで話題を、再び「幻の三十間掘川跡」に戻します。と申しますのは、晴海通りを挟んで
汐留側「シネパトス」脇ある、ちょっとした緑地帯に、何の目的で建てられたかわからない
「女の子」の銅像を、見つけたからなのです。「彫刻」の台座には、「夕映え」というタイトルが
添えられていました。
帰宅して調べてみた結果、それは三十間堀川に架けられていた「三原橋」に設置されていた彫刻と判明。やはり、撮影しておいてよかったと思いました。
写真上段左側「晴海通り、汐留側の三十間掘川跡」
写真下段「三十間堀川に架かっていた三原橋に設置してあった銅像(夕映え)」
彫刻「夕映え」が設置されている 銀座5丁目-11の周辺地図
また、埋め立て前の「幻の三十間堀川」の写真が掲載されているページも見つけましたので、あわせてご紹介いたします。ページの名称は「日本映画100風景」です。
「銀座化粧(1951年新東宝)」という映画の中で、ここがロケ地の一部として取り上げられていました。ご興味のある方はクリックして、ご覧になってみてください。
日本映画100風景三春橋(銀座)「銀座化粧」ロケ地
それによると「戦後、あれはてたままになっていた三十間堀川を、銀座の瓦礫で埋め立てて、その埋め立てた土地を売却した資金を、瓦礫の処理にあてる」という銀座再生プランからきたものだということがわかりました。その頃と現在の写真を比べてみて、「シネパトス」の不思議な地下構造が、よく理解できました。(※日本映画100風景 三春橋「銀座」より抜粋)
「ALWAYS三丁目の夕日」という映画が話題となっていますが、なんとなくわかるような気がします。映画ファンにとっては、必見です。お楽しみいただけること思います。
ページの管理者は、映画会社関係の方ではと思いました。いずれにしても貴重な資料を
公開してくださることに、感謝いたします。
「ALWAYS三丁目の夕日」
「日本映画100風景」「映画で見る昭和30年代ノスタルジア」
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by jsby
| 2005-12-11 19:57
| 追憶 冬物語