2005年 12月 11日
冬の追憶No.21-20-5 |
今回、投稿の「銀座の地名と由来」については、2ページに渡っています。振り返って、ご覧ください。
銀座4丁目の交差点を渡り、銀座中央通りの東側5丁目「銀座コア」の前に、人だかりができていました。覗いてみると、下記のように華やかで清楚なディスプレイが施されていました。まるで白い妖精のようでした。最近の全体的な傾向は単色でシンプル、その分オーナメントに工夫が凝らされているような感じがしました。
コア」ビル前の街路で「木挽町狩野家(こびきちょうかのうけ)・将軍のために絵筆をふるった奥絵師たち」というモニュメントを、見つけました。また私の好奇心が、動き始めました。モニュメントに記載されている内容を、撮影してきたのが下記写真です。良くお解りにならないと思いますので、書かれている内容をさらに記述してみました。
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ここ銀座の木挽町は、絵師として著名な狩野家ゆかりの地です。狩野家は室町幕府の御用絵師であった狩野正信を始祖とする絵師の一家で、江戸時代に鍛冶橋・木挽町・中橋・
浜町の四家がありました。最も栄えたのは木挽町狩野家で、銀座5丁目付近には画塾がありました。九代の狩野晴川印養信が書いた「公用日記」からは、障壁画や婚姻のための屏風の制作、将軍の行灯や扇子の装飾など、公私にわたって将軍家に仕える奥絵師の生活ぶりがうかがえます。
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読み終えて、この木挽町狩野家画塾が何処にあったのか知りたくなりました。帰宅後、
ネット検索した結果、「中央区の町つくり」という良質なサイトを見つけました。このサイトは、企画制作が「清水建設」と「日本橋・八重洲・京橋21」というプロジェクトによるものです。
シンプルでわかりやすくまとめられ、とても参考になりました。
それによると、「江戸幕府に仕えた奥絵師、狩野四家の木挽町狩野家の屋敷が旧木挽町のこの地に移ったときに画塾が開かれた。ここから多くの画家が生まれた」となっていました。(※ 中央区の町つくり「中央区の風景」より抜粋)
狩野栄川院 典信(かのう えいせんいん みちのぶ)は、初代栄川院古信(ふるのぶ)の息子で、木挽町狩野家第6代にあたります。木挽町狩野家でも中でも最も才能のあった画家といわれ、山水、花鳥を得意としました。徳川8代将軍徳川吉宗、10代将軍徳川家治の御用絵師として寵愛を受け、活躍いたしました。
また、老中・田沼意字(たぬま おきつぐ)とも懇意となり、ともにお酒を酌み交わすほどの関係になりました。そして、ついには田沼家の屋敷の隣に広大な敷地を与えられ「木挽町狩野家」当主となったそうです。さらに奥絵師としての最高の名誉である「印法」の位も授けられています。
絵師としてこれほどの栄耀栄華を極めた人も珍しいかもしれません。しかし、現存する典信の作品は少ないとのことです。下記をクリックしますと狩野栄川院 典信(かのう えいせんいん みちのぶ)が描いた「双鶴図」をご覧になることができます。
「リンデン州立博物館(ドイツ)・ベルツコレクションの日本画」
木挽町狩野家画塾跡については、下記ページで紹介されています。ご興味のある方は
ご覧になってみてください。
中央区の町つくり「中央区の風景」
木挽町狩野家の画塾跡 銀座5丁目-13の周辺地図
またしばらく歩き、銀座中央通りの東側6丁目(松坂屋付近)まで来ると、街路車道側に、
下記のような「銀座煉瓦街の建設」というモニュメントがありました。
モニュメントに、載されている内容を、撮影してきたのが下記写真です。良くお解りにならないと思いますので、書かれている内容をさらに記述してみました。
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華開く銀座の新時代「銀座煉瓦街の建設」江戸の町屋から帝都の街へ
明治という時代の新しい風は、銀座を大きく変えました。1872年(明治5年)の和田倉門
付近から出た火災を機に、火に強く、日本の帝都にふさわしい街をつくるべく、アイルランド生まれの技師ウォートルスの指揮のもと、銀座には西洋風の街が建設されました。街はレンガで舗装された歩道と馬車道がまっすぐと伸びた大通り、両脇には赤レンガ造りの西洋風の街並み、桜や松の街路樹―生まれ変わった銀座はまさに文明開化を象徴する街でした。
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その頃の銀座を描いたものが、モニュメント右側にある絵です。その部分も拡大し、撮影
してまいりました。
銀座をレンガ造りの西洋風の街並みにしようとした計画は、1872年(明治5年)に始まりました。きっかけとなったのは、この年の2月26日に起きた銀座大火でした。祝田町の和田倉門内の元会津藩邸だった役所から出火し、銀座全域が焼けてしまいました。当時の東京府知事・由利公正(ゆり・きみまさ)は、銀座を欧米の街並みにしたいと考えました。そこで、新都市の計画を、イギリス人 トーマス・ウォートルスに委嘱いたしました。
(※銀座コンシェルジュ「銀座ストーリー・銀座煉瓦街の誕生」より抜粋)
詳細は下記ページにて、ご紹介されています。ご興味のある方は、ご覧になってみてください。
「銀座ストーリー」銀座煉瓦街の誕生 ~明治5年以降~
銀座をはじめとする煉瓦を使った西洋風の建築物や街並みが、どのようであったのかを、
公開しているページがありますので、ご紹介いたします。
ページ名は、マイコレクション「絵葉書の世界」弥十郎です。
銀座・京橋・日本橋・東京駅と主要な建物が、紹介されています。下記をクリックして、ご覧ください。このような貴重な資料を、公開してくださっていることに、感謝申し上げます。
☆明治期の銀座4丁目(このころは、尾張町)
☆明治期の京橋・日本橋
☆東京駅・丸の内側(戦前)
この頃の東京駅がこんなに広大な野原の真中に建てられてなんて、今では想像もでき
ません。
それによれば、銀座のシンボルである時計塔を持つ建築物「和光」は、明治27年(1894)12月に完成しました。そのころは、服部時計店。やはり時計塔がありました。そして現在、銀座三越の建物が建てられているところには、山崎高等洋服店がありました。
明治38年(1905)に開店の山崎末吉の山崎高等洋服店は3階建で、上に塔を設置していましが、塔だけが関東大震災で崩れ落ちてしまったそうです。
そして、この場所には三越銀座店が、昭和5年(1930)4月10日に進出いたしました。
(※明治期の銀座4丁目より抜粋)
都心のイチョウ並木といえば神宮外苑の並木道が有名ですが、東京駅から皇居へ通じる
行幸通りもなかなかすばらしいです。東京駅から皇居へ通じる行幸通りの内側にある幅広い道は普段使用されず皇室行事の際に使用されているとのことです。
この銀杏並木は、大正12年に起こった関東大震災の復興事業として整備されました。道幅は約73mもあるそうです。
行幸通りについては、私のブログをご覧いただいているdabadabaxさんのページ
「My favorite things 私の好きなもの」に写真が掲載されています。下記をクリックして、
ご覧ください。
12月7日 皇居と東京
銀座に行くといつも撮影してくるビルがあります。「資生堂ビル」です。現在のビルは、リニュアルされ、銀座8丁目に2005年3月1日再オープンいたしました。スペインの建築家リカルド・ボフィル氏の設計によるもので、ご覧のような斬新なデザインです。
下記のページで、「銀座資生堂ビルの変遷」が紹介されています。ご興味のある方は、ご覧になってみてください。
中央区の町つくり「銀座資生堂ビルの変遷」
「銀座 資生堂ビルの店内風景」
ざっと駆け足ではありましたが、私の寄り道「江戸時代 銀座めぐり」を終わらせたいと思い
ます。
最後に「25ansウエディング」というページで、プレゼントコーナーを見つけました。
2006年に『25ansウエディング』が創刊20周年を迎える記念として、ホテルでの宿泊やディナーまたレストランへご招待する企画を公開しています。応募締め切りは、12月末日、66名を招待してくださるそうです。私も昨日、応募してみました。
『25ansウエディング』創刊20周年 「スペシャルプレゼント(ホテル・レストラン編)」
この物語を幅広く皆様にお読みいだだけたらと思い、下記2つの「ブログランキング」サイトに登録してみました。何か心に感じることがありましたら、クリックして
いただけますと嬉しく思います。どうぞ、よろしくお願い致します。
「人気blogランキング 詩、小説部門」
「ヵヮィィ☆ブログランキング 写真&その他部門」
銀座4丁目の交差点を渡り、銀座中央通りの東側5丁目「銀座コア」の前に、人だかりができていました。覗いてみると、下記のように華やかで清楚なディスプレイが施されていました。まるで白い妖精のようでした。最近の全体的な傾向は単色でシンプル、その分オーナメントに工夫が凝らされているような感じがしました。
ここ銀座の木挽町は、絵師として著名な狩野家ゆかりの地です。狩野家は室町幕府の御用絵師であった狩野正信を始祖とする絵師の一家で、江戸時代に鍛冶橋・木挽町・中橋・
浜町の四家がありました。最も栄えたのは木挽町狩野家で、銀座5丁目付近には画塾がありました。九代の狩野晴川印養信が書いた「公用日記」からは、障壁画や婚姻のための屏風の制作、将軍の行灯や扇子の装飾など、公私にわたって将軍家に仕える奥絵師の生活ぶりがうかがえます。
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読み終えて、この木挽町狩野家画塾が何処にあったのか知りたくなりました。帰宅後、
ネット検索した結果、「中央区の町つくり」という良質なサイトを見つけました。このサイトは、企画制作が「清水建設」と「日本橋・八重洲・京橋21」というプロジェクトによるものです。
シンプルでわかりやすくまとめられ、とても参考になりました。
それによると、「江戸幕府に仕えた奥絵師、狩野四家の木挽町狩野家の屋敷が旧木挽町のこの地に移ったときに画塾が開かれた。ここから多くの画家が生まれた」となっていました。(※ 中央区の町つくり「中央区の風景」より抜粋)
また、老中・田沼意字(たぬま おきつぐ)とも懇意となり、ともにお酒を酌み交わすほどの関係になりました。そして、ついには田沼家の屋敷の隣に広大な敷地を与えられ「木挽町狩野家」当主となったそうです。さらに奥絵師としての最高の名誉である「印法」の位も授けられています。
絵師としてこれほどの栄耀栄華を極めた人も珍しいかもしれません。しかし、現存する典信の作品は少ないとのことです。下記をクリックしますと狩野栄川院 典信(かのう えいせんいん みちのぶ)が描いた「双鶴図」をご覧になることができます。
「リンデン州立博物館(ドイツ)・ベルツコレクションの日本画」
木挽町狩野家画塾跡については、下記ページで紹介されています。ご興味のある方は
ご覧になってみてください。
中央区の町つくり「中央区の風景」
木挽町狩野家の画塾跡 銀座5丁目-13の周辺地図
またしばらく歩き、銀座中央通りの東側6丁目(松坂屋付近)まで来ると、街路車道側に、
下記のような「銀座煉瓦街の建設」というモニュメントがありました。
華開く銀座の新時代「銀座煉瓦街の建設」江戸の町屋から帝都の街へ
明治という時代の新しい風は、銀座を大きく変えました。1872年(明治5年)の和田倉門
付近から出た火災を機に、火に強く、日本の帝都にふさわしい街をつくるべく、アイルランド生まれの技師ウォートルスの指揮のもと、銀座には西洋風の街が建設されました。街はレンガで舗装された歩道と馬車道がまっすぐと伸びた大通り、両脇には赤レンガ造りの西洋風の街並み、桜や松の街路樹―生まれ変わった銀座はまさに文明開化を象徴する街でした。
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その頃の銀座を描いたものが、モニュメント右側にある絵です。その部分も拡大し、撮影
してまいりました。
(※銀座コンシェルジュ「銀座ストーリー・銀座煉瓦街の誕生」より抜粋)
詳細は下記ページにて、ご紹介されています。ご興味のある方は、ご覧になってみてください。
「銀座ストーリー」銀座煉瓦街の誕生 ~明治5年以降~
銀座をはじめとする煉瓦を使った西洋風の建築物や街並みが、どのようであったのかを、
公開しているページがありますので、ご紹介いたします。
ページ名は、マイコレクション「絵葉書の世界」弥十郎です。
銀座・京橋・日本橋・東京駅と主要な建物が、紹介されています。下記をクリックして、ご覧ください。このような貴重な資料を、公開してくださっていることに、感謝申し上げます。
☆明治期の銀座4丁目(このころは、尾張町)
☆明治期の京橋・日本橋
☆東京駅・丸の内側(戦前)
この頃の東京駅がこんなに広大な野原の真中に建てられてなんて、今では想像もでき
ません。
それによれば、銀座のシンボルである時計塔を持つ建築物「和光」は、明治27年(1894)12月に完成しました。そのころは、服部時計店。やはり時計塔がありました。そして現在、銀座三越の建物が建てられているところには、山崎高等洋服店がありました。
明治38年(1905)に開店の山崎末吉の山崎高等洋服店は3階建で、上に塔を設置していましが、塔だけが関東大震災で崩れ落ちてしまったそうです。
そして、この場所には三越銀座店が、昭和5年(1930)4月10日に進出いたしました。
(※明治期の銀座4丁目より抜粋)
都心のイチョウ並木といえば神宮外苑の並木道が有名ですが、東京駅から皇居へ通じる
行幸通りもなかなかすばらしいです。東京駅から皇居へ通じる行幸通りの内側にある幅広い道は普段使用されず皇室行事の際に使用されているとのことです。
この銀杏並木は、大正12年に起こった関東大震災の復興事業として整備されました。道幅は約73mもあるそうです。
行幸通りについては、私のブログをご覧いただいているdabadabaxさんのページ
「My favorite things 私の好きなもの」に写真が掲載されています。下記をクリックして、
ご覧ください。
12月7日 皇居と東京
銀座に行くといつも撮影してくるビルがあります。「資生堂ビル」です。現在のビルは、リニュアルされ、銀座8丁目に2005年3月1日再オープンいたしました。スペインの建築家リカルド・ボフィル氏の設計によるもので、ご覧のような斬新なデザインです。
下記のページで、「銀座資生堂ビルの変遷」が紹介されています。ご興味のある方は、ご覧になってみてください。
中央区の町つくり「銀座資生堂ビルの変遷」
「銀座 資生堂ビルの店内風景」
ざっと駆け足ではありましたが、私の寄り道「江戸時代 銀座めぐり」を終わらせたいと思い
ます。
最後に「25ansウエディング」というページで、プレゼントコーナーを見つけました。
2006年に『25ansウエディング』が創刊20周年を迎える記念として、ホテルでの宿泊やディナーまたレストランへご招待する企画を公開しています。応募締め切りは、12月末日、66名を招待してくださるそうです。私も昨日、応募してみました。
『25ansウエディング』創刊20周年 「スペシャルプレゼント(ホテル・レストラン編)」
この物語を幅広く皆様にお読みいだだけたらと思い、下記2つの「ブログランキング」サイトに登録してみました。何か心に感じることがありましたら、クリックして
いただけますと嬉しく思います。どうぞ、よろしくお願い致します。
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by jsby
| 2005-12-11 20:54
| 追憶 冬物語